「救いの喜び」

十字架金

2003年1月23日 祈祷会  田中敬康師
詩篇51編10-13節
「救いの喜び」


 「神様の祝福の世界」というものを思わせて頂くとき、そのすばらしさ、豊かさを思わずにはいられません。
しかし、それと同時に、『罪』というものが、人間が本来手にしていたそういった恵みの中から、いかに多くのものを人間から奪い去ってしまっているかということを思わされるのです。
この詩編の12節の所を見ますと、「救いの喜び」あるいは、「喜んで仕える霊」という言葉が出てまいります。

 神様の恵みに保たれていることの幸い、それはこの「救いの喜び」に要約されるといっても過言ではありません。
神様の恵みに保たれている時、その人は「救いの喜び」を持ち続けることが出来ますし、またこの「救いの喜び」を持ち続けていることが即ち、その人にとって何ものにも変えることの出来ない神様の恵みであるということができるからです。
しかし、『罪』が入ってくると、これが奪われてします。
王としてのダビデの心の中に、罪が入ってきた時、それが奪われ、この詩編51編において、彼はその回復を願っているのです。
12節。「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」
 自分が王として立てられたのは、民の幸せのために、全力を、最高に、有効に使って、『仕えるため』でありました。
しかし、罪が入ってくるとき、それが奪われて、仕えるんじゃなくて、仕えられることを求め、他の人のためでなく、自分のためにすべてを考え、行うようになってくる。
そこに罪の大きな問題があるのです。
 『仕える』といった時、その根拠となるのは、自分は何者でもない。
今あるのは、ただ神の救いによるとの「救いの喜び」であります。
さらにもう一つ上げるとすれば、それは、イエス様ご自身が「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり・・・」(マルコ10:45)とおっしゃっておられるように、仕えられるためでなく、仕えるために生きられた、その生涯の模範によるということができるでしょう。
 また、人が救いの恵みに生きるとき、嫌々と言うのではなく、喜んで仕える霊が私をささえるという種類の仕え方、奉仕がなされてくるのであります。

 民数記6:22-27をご覧いただきますと、ここには司祭に与えられた祝祷の言葉が出てきます。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」

ここに三重の祝福が述べられています。これは新約に見るところの三位一体が秘められているわけですが。
「主があなたを祝福し」―――この祝祷は、イスラエル全体が対象ですけれども、全体に祈りがささげられていながらも、それを構成するところの一人ひとりに、その祝福が祈られているということが出来ましょう。
その内容は、
1. Protection 「主の守り」
2. Pardon   「罪の赦し」
3. Peace    「平安」 と3つの“P”で整理されるところのものであります。
喜んで仕える霊のことを『自由の霊』と解説をしている人がありますが、主の御守り、罪の赦し、またその所から来る平安のゆえに、私たちは本当の意味での『自由』を自らのものとすることができる者とせられたわけです。
しかも、「彼らがわたしの名で・・・祈るなら」とあるように、主イエス様の聖名によって祈る時、このような内容のことが与えられるのであります。

 さらに、それだけではありません。申命記28:1-12を見ますと、主の祝福はこの3つだけでもすばらしいということができるのですけれども、それにとどまらず、私たち自身も祝福され、私たちの子供たちも、家畜も、持ち物も祝福される。
私たちは『主ご自身の聖なる民』とされ、私たちに『主の名』がつけられる。
限りないところの恵みがそこには約束されているのです。
 
 どうかこのような意味で、救いの喜びをもって主の前に出、喜んで仕えるお互いとならせていただきたいと思います。
そしてそれは、罪の赦しと、神様との正しい関係無しには不可能であることをおぼえながら、ダビデと同じ思いをもって神様の御前に出させていただきながら、罪が私たちから奪い去っているものを返していただいて、神様の祝福の世界に生きるものとしていただきたいと思います。


ばら


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