試練を乗り越えて

私は、1945年6月19日の夜、静岡空襲に会いました。当時5歳でした。
その時は、暑さの中、道を渡る事も出来ず、防空壕では出入口が燃え始め、火傷を負いつつも必死で逃げました。

車庫の中は、暑さのため、逃げ場がなく人で一杯、奥に入ることも出来ず、車庫前では大勢の人が、手を合わせて祈っていた光景。5歳の私には、強烈な印象となり残っています。
空襲の翌朝、母親の実家に疎開しました。火傷を背中に負った私の弟は、母の背中で、数日後亡くなりました。

それから、実家で約3年間、居候として過ごしました。
母親の実家は、飛行場の近くでした。当時、甥と二人で道端を歩いていた所を飛行機から機銃掃射を受け、道に伏せたりしながら、命からがら家にたどり着いた記憶があります。
小さいながら、その間は、農作業、浜での塩作り、いろいろな事を手伝いました。

小学3年生の頃、静岡に戻ることになりました。
両親は、仕事を探し始め、父は元の茶筒製缶業を手掛け始め、母も父と一緒に仕事に精を出す様になりました。
母は、戦前から教会の集会に励んで通っていました。
母から当時のことを聞くと、ただクリスチャンであるというだけで警察に呼び出され、子供を背負いつつ取り調べを受け、そして聖書を取り上げられたそうです。
その母が、現在、私の信仰の支えとなっています。

私の小学生時代は、スポーツや教会での日曜学校又、クリスマスが楽しみでした。
しかし、中学・高校と遊びに夢中で教会に行く事は絶えてしまいました。
高校入試は、一度失敗し、卒業後、大学進学のため、静岡を離れ上京し学生生活に入りました。

私は、体が大きいのですが、気が弱く、少しのことで挫折しやすく、学生生活もどこを目指して毎日を過ごして行けばいいか迷い、大変悩むようになりました。

ある時、母からの手紙に、困ったら教会に行きなさい。と書いてあったのを思い出し、インマヌエル丸の内教会に心が向き通い始めました。
その当時は心の中で「神様助けて下さい。」と叫びながら、集会に励みました。
そして罪を悔い改めてイエス様を救い主として信じ洗礼を受けました。
1959年12月20日、19歳の時でした。

その時のみ言葉は、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、あたいなしに義とみとめられるのです。」 
                                   ローマ人への手紙・3章23-24節

心の中は、喜びで一杯でした。

そして、学生生活の中では、

「あすのための心配は無用です。あすの事はあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。」
マタイの福音書6章34節

というみ言葉が私にとって大変力になりました。

タキ


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