2021年4月4日 イースター礼拝 メッセージ要約
「私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカ 24章32節
聖書箇所 ヨハネ21章1節-7節
1
その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。 2 シモン・ペ
テロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
3シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。 5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、
おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。 7それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロ
に「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので 上着をまとい、湖に飛び込んだ。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かし説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」ルカ24:32
「私たちの心は内で燃えていたではないか」 「イエスは生きておられる」・・・十字架で死んだのではなかった。
復活の主に会ったとき ①復活の命に動かされるとはどういう事か ②復活の命に動かされているだろうか
シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」ルカ22:33
すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」マタイ26:33
イエス様の弟子ペテロは、ガリラヤ湖畔より遠く離れたエルサレムにいた時の
イエス様から一目散に逃げた十字架の夜のことが忘れられなかった。 どうしてあの時、逃げたのだろうか。
数時間前は、たとえ他の弟子があなたを見捨てても、私だけは最後までついて行きます と勇ましく胸を張り豪語したのに。
イエス様を見捨ててしまった。 良心の呵責 ペテロは、自分の失敗にこだわっていた。失敗が心を支配しつづけていた。
人間の常識を越えた、イエス様の復活、信じられない奇跡、このイエス様を見捨てた事実、取り返しのつかない失敗
天地をひっくり返すような出来事よりも、小さな失敗に心が支配されてしまうのが人間です。
「私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき」詩編73:21
中途半端なペテロですが、認めることが大事です。 ペテロは、信仰の原点に戻ります。
ペテロは、網を捨ててイエス様に従ってから三年半の出来事を経て、同じ場所にもどりました。
「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」黙示録2:4、5
原点に帰る
今、裕福であれば、貧しかった時
信仰の一番情けなかった時、十字架の恵みを必用だった時、魂にふれて扱って下さったイエス様を思い起こしましょう。
イエスはシモン・ペ テロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
ヨハネ21:15 失意の中にいたペテロ 情けないそういう状況にあったペテロをイエス様は、ご存じであった。
ここからスタート イエス様を捨てて逃げていった事実は、ここで終わり、新しいスタートが始まった。 先が見えない重苦しい課題 → すべて信仰を原点に戻すためのもの、イエス様の恵みと憐れみだった。 十字架は、私の罪を許し、よみがえりの命に満たして下さる。 私の心中の苦しみが解決されるのが十字架です。 思いわずらう事なく信仰生活を送っていけばいいのです。 私たちの体は滅びても永遠の命があるから。
「「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、
一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 お言葉によって心を燃やされる信仰生活を送りましょう。 消すのは悪魔の仕業です。
(新日本聖書刊行会. 聖書 新改訳2017 )
これは、メッセージを聞いて信徒が書いたものです。メッセージそのままではありません。
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