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2021年10月24日 礼拝  メッセージ要約

「そして主に倣う者になりました。」

41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始め た。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになり なさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
聖書箇所 マルコ10章41節-45節

1 先々週、Mさん親子が来会し、「自分の内に核なるものを」と仰いました。
これから少しずつ新しい人が増えていく中で、私達は先に救われた者としてどの様に恵みを分かち合ったら良いのでしょうか。


信仰者は全てイエス様を信じて罪悔い改めて赦され救われますが、
クリスチャンでも時に突然の苦難に襲われるとパニックになり信仰は何処にあるのか風が吹けば飛んで行ってしまう事態に陥る人もいます。
イエス様を知っているのと、従っているのとでは雲泥の差がある事を今日の箇所からも教えられます。
ですからイエス様を信じて受け入れた者達はイエス様の御言葉を聞いて従うというが無ければ恵みが伝えられません。
恩寵の手段を用いて成長していく、恵みの世界があるのです。
この世にあって誘惑や罪に打ち勝ち、信仰・希望・愛に生きる揺るがない生き方が出来る為には、恵みの手段をどう活用するかが鍵です。
ですから今朝主のお言葉を正しく理解し従って参りましょう。

今朝の箇所は弱い弟子達に主が教え諭した箇所です。41節に弟子達は仲たがいしています。
その原因は37節ヤコブとヨハネが他の弟子を出し抜いて、イエス様の栄光の座の右と左に座らせてと願い出たからです。
これが愚かで滑稽なのは33,34節でイエス様が三回目の受難、十字架と復活を告知したにも関わらず、彼らは自分が人の上に立ちたい、この世の栄誉を願っている事です。
全く十字架の意味も苦難と犠牲の意味も分かっておりません。

聖書を読みイエス様の言葉の意味を正しく理解し従うのは優しいようで難しいのです。
何故なら、神の御言葉は、この世の価値観や哲学、処世術とはまるで違う真理だからです。
このマルコではイエス様が十字架と復活の三度の受難告と同時に、それに対する人間の本質が浮き彫りになっています。

弟子達は真理にも鈍く、理解できず霊的には人間的な繁栄と栄誉に心奪われていました。
ですから主の十字架を前にして逃げ出したのです。
それでもイエス様は弟子達を諦めずに神の真理を語りました。
今朝はここから二つの大切な事を受け止めて参ります。

私達の内側には自己中心の王座があるということです。
42節には世の中の人々の姿があります。
支配し権力を振るうのが神様を信じない人です。

ですが弟子達も三度十字架と復活の告知をされても理解出来ず41節争います。
そこでイエス様は43,44偉くなりたい者は仕える者と、先頭に立ちたいと思う者は僕となりなさいと仰いました。
それは人間にはそういう発想がなく主の道に反発するのが人の罪だからです。

8章の一回目の告知ではペテロはサタンと言われます。
9章31節で二回目の受難告知の後、誰が一番偉いかと話し合います。
これは私達の心に必ずある自我です。
「きよめ」の恵みは「献身」と「信仰」で得られ自我は卓殺されますが、
信仰者でも気を付けませんと神の前ではなく人の前で奉仕をしたり、
自分の行っている事が一番「愛」のある行為だと他人を批判します。

インマヌエルの道に記されてあった「自我」の姿ですが、他人の行為を自分と比較し優劣を加えたり、
それで人を見下げたり、軽蔑する人。
また過去の自分の奉仕を過大評価して何度も引き合いにしたりします。
自我に生きていると、あの人には感謝が足りない、あの人には愛が足りないと口に出して周りを非難しながら暗に自分を褒める人。
また人に配慮してもらえない事を嘆いて自己憐憫に陥る人です。
これが、自分を心の王座にどっしりと座わらせている「自我の姿」です。
そういう人には本当の平安がなく自分で何とかしようともがいて苦しみいつもどこか満たされていないのです。
神様の御前で私達はそれを持っているのです。

私達は罪の中に死んでいて、ただ主の愛のゆえに救われて召されているに過ぎないのに、今あるのは自分の努力と功績によると思い込んでいる人がいます。それこそが自我です。

しかしそういう人の為に主は死んで下さって、
主の御言葉に生きる者となるようイエス様は忍耐をもって招いて下さっています。

二つ目には②
仕える者となれです。
43,44節、聖書にはエステルやダニエルの様に危険を顧みずに人を慮って犠牲を払い勤しむ人、
イエス様の様に誰にでも仕え切る人になれという模範があります。
私が出来ているのではありません。

一緒に目指すのです。45節でイエス様は代価を払って私達を買い取る為に自分の命を捧げました。
つまり自我の牢獄の中で不自由な私達を贖いだし自由にする為にイエス様は十字架にかかったのです。
イエス様は自分の愛する家族だけでなく、誰からも顧みられない人や孤独で乞食の様な人にも、年長者から幼子まで男女区別なく差別なく
、働き盛りの人にも、働けない人にも、病める者にも、弱き者にも喜んで誰の為にでも奉仕する人になる様に招くのです。
これは教会から始まり、家庭や職場に広がる祝福、恵みです。
間違ってはなりませんが、その人の言われるまま、
要求されるままに動く小間使いでも処世術でもありません。
主が私達の心を天の父なる神様に向けられた様に、
私達はその人の心をイエス様に向け、その人がイエス様を知り、イエス様を愛し、イエス様に従う事が出来る様に神と人とに仕えるのです。
主は私達の為に十字架を取られました。
ですから主に倣う者となりましょう。

6あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。
7その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。

 テサロニケⅠ 1:6,7コスモス

新日本聖書刊行会. 聖書 新改訳2017 )


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