サブタイトル

2016年9月4日 礼拝 メッセージ要約

「信仰によって生きる①」
「信じる者に働く神のすぐれた力」
聖書箇所  旧約聖書 第二列王記 4章1節~7節

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。
「あなたのしもべである私の夫が死にました。
ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。
ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
エリシャは彼女に言った。
「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」
彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
すると、彼は言った。

「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。
それも、一つ二つではいけません。
家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。
そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。
「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」
と言うと、油は止まった。
彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。
「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。
その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

信仰を持っていると信仰によって生きるとは、同じではありません。
信仰とは、へブル11章1節に
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
と定義されています。
パウロは、イエス様という宝と福音の恵みを土の器(私たち)の中に収めていると言っています。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです」
Ⅱコリント4章7節


私たちは、この宝を活用しているでしょうか。
クリスチャンになっても信仰を生かしていないのでは、ないでしょうか。
それは、次の事が考えられます。

① 困難でない場合
別にお祈りしなくてもなんとかなってしまう。
些細な事、慣れている事は、神様を頼らなくても自分で出来てしまう。
自分の体や健康を信じている。
つまり、信仰に依らなくても生活できてしまうのです。
しかし、聖書には、こう書いてあります。


「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16-18節


② 大きな困難に直面すると
あまりにも大きな困難ゆえ祈る事も止めてしまう。
うろたえて祈れなくなってしまう。
人間的解決に走ってしまう。
心が神様に向かっていないと不平不満をいい、神様の前にたてつきます。
神様抜きの行動を神様は、決して喜ばれません。


「預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。」 Ⅱ列王記4の1
つまり、問題を神様の前に持ち出したのです。
エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。」

「わたしに何をしてほしいのか。」 マタイの福音書 20章32節
イエス様の方から聞いて下さるお方です。
しかし、私たちは、世のもので満ちていて渇きがないのです。
すると、彼は言った。
「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。」

信仰の程度が試されました。
信仰は、神様の恵みの受け皿です。
信仰と期待の量に比例します。


「あなたがたの信仰のとおりになれ。」マタイ9:29
「あなたの口を大きく開けよ。私がそれを満たそう」(詩篇81:10)


信仰は神様を信じることです。神様を人間の側で制限すべきではありません。
最後まで神様と結びつく信仰。
秘訣は、
自分に虚しくなる事です。
自分の無力さを自覚し、神様により頼み続ける時、恵まれ続けます。
「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」 (第二コリント12章9節)
自分自身どんなに力がなくても神様の恵みがおおうのです。
パウロは、自分自身の事を「返さなければならない負債を負っています」 (ロマ1章14節)」と言っています。
そして、福音を伝える事によって果たすべき負い目を払っていると言っています。
私たちは、伝道と宣教に対し、負債を払っていますか。


又、心にけがれを持ったままではいけません。
神様に戸を開き、それ以外の事には、戸を閉じましょう。
私たちつまり、空の器を神様に差し出すのです。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
詩篇119編130節

信仰を持つと必ず試されます。
冒険する信仰を持ちましょう。
人間はくじけてしまいます。
自分の立場、経済的損失、時間、プラスの選択は出来ても、負の選択が出来ません。
負の選択をする信仰には、勇気がいります。
自分がマイナスになっても他人の祝福を願う。


へブル書11章には、信仰によって勇気ある選択をし、生きた人々が書かれています。
へブル書11章26 彼(モーセ)は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。

クリスチャンは、どれだけ自分の内に「キリストの品性の作られる事」を目標にしていますか。
天に帰るその時まで、冒険をおそれず、信仰の情熱を勝利の確信と忍耐によって持ち続けましょう。
たとえ、地上にいる間に結果を見られなくても。


「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」 文語訳聖書 ヨハネの第1の手紙5章4節

ばら

これは、メッセージを聞いて信徒が書いたものです。メッセージそのままではありません。


〒426-0014 静岡県藤枝市若王子2丁目1-10
TEL 054(644)7242  FAX 054(644)7242

Copyright © 2014-2015 インマヌエル藤枝キリスト教会 All Rights Reserved.