2016年4月3日 召天者記念礼拝 メッセージ要約
「イエスにあって眠った人々」
聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一 4章13節から18節
「耐え忍んだ人たちは幸いです」
イースター 復活 私たちの人生に本当に必要なものとは、
「死から命に甦る希望」です。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。」
ヨハネの福音書11:25、26
やがて肉体は朽ちますが、魂は死にません。 イエス・キリストは、よみがえりの初穂となり、眠った人々を連れて来て下さいます。
「私たちの国籍は天にあります。」ピリピ3:20
私たちもすでに亡くなった人々もイエス様の再臨の栄光の朝を待ち望んでいます。
死は、大きな悲しみです。私たちの人生を悲しみのどん底に叩き込んでしまいます。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」ヘブル9: 27
人類最大の最後の敵、誰にでも平等に訪れるそれは、死です。 私たちはいたずらに死を恐れ、考えまいとしています。
死にまつわる悲しみ、恐怖を遠ざけておきたい。 しかし、残念ながらいつその時がやってくるかわからないのです。
だからこそ、死というものを、限りある命を真正面から見て考えなければいけないのです。 死を受け入れ、準備するとは、世に輝いて生きることです。
自らの死と向き合い準備を供えるようにしておくのです。 なぜなら、私たちは、生まれた瞬間から死に向かっています。
生と死は表裏一体なのです。
ですから、死を忌むべきものと出来るだけ考えないようにとしているのはどうでしょうか。
死は未知であり、死を迎える準備はなかなか出来ない、この死の恐怖を取り除くポイントは、
「私は神様に喜んで受け入れて頂ける生涯を送っただろうか」と考える事です。
「罪から来る報酬は死です。」ローマ6:23
けれども、死は無では、ありません。
罪の生活は、永遠の滅亡を意味し、神様を受け入れる事は、永遠の命を意味します。 聖書は、いろいろな角度から罪とは何か語っています。
神を知っていながら認めない事、ねたみ、争い、あざむき、心から出るものが人を汚し、自分の人格を消耗し、ダメにする。
死を絶えず身近なものとし、いつ死を迎えてもいいような日々を送りましょう。
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4:12)
これは、エンディングノートを書くこととは、違います。 財産分与を考えるのではありません。
死という制限のある限られた活動時間の中、人生で何が大切なのか、何をなすべきかを考え行動することです。
若い頃は、時間が出来たら、あれをしようこれをしようと思いますが、年を取ったら容易に出来なくなります。
ですから、今という時間を大切に生きるのです。
「若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」伝道者の書 11:9-10
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」伝道者の書 12:1
罪を持ったままの死は、最大の不幸です。 神の怒りがとどまるからです。 罪を持ったまま生活してはいけません。
イエス様の元に行き、態度を悔い改めて生きるのです。 何故なら、神の子イエスは私の罪の為に十字架に掛って下さいました。
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」マタイ9:2
イエス様に受け入れて頂ける日をぜひ持って下さい。 主にあって眠った人々は幸いです。それは、魂の永遠の安定、復活の希望だからです。
肉体の死を以って終わりではなく、更にすぐれた故郷、神様の御国に行くのです。
それには、私はイエス様に受け入れられたという確信、悔い改めと信仰が必要です。
これは、メッセージを聞いて信徒が書いたものです。メッセージそのままではありません。
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