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2015年9月27日 礼拝 メッセージ要約

「クリスチャンの実際生活 ⑪」
聖書箇所 ヤコブ2章20節から26節

「行いのない信仰は、死んだもの」

クリスチャンとして教会に来て良かった。霊的に恵まれた。

しかし、日常生活との間にあまりに大きな落差がある。
これではいけません。 日常生活に信仰が生きる人になることを目指しましょう。

このヤコブ2章では、信仰が行いに現れた人物が2人紹介されています。
1人は、アブラハム(行いによって信仰を全うしたと神様に評価された)と遊女ラハブ(命がけで神様の使者たちを助けた)です。
今日は、アブラハムの人生を学んでみたいと思います。

その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 (創世記12章1節)

人生の第1の節目が来ます。
アブラム(アブラハム)は、神様の声、神様に従うところから出発します。
「わたしの示す地(神様ご自身が望む所)へ行きなさい」 

75才のスタートです。 いくつになっても神様の声に従いスタートを切る、これが、信仰者の真の姿です。

すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。 「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
  (創世記15章4節)

二つ目の節目が、アブラム(アブラハム)約80才の時に来ます。
子孫の問題(アブラハムとサラとの間には、子どもがありませんでした。)
「彼は主を信じた」―――これが彼の人生の全てです。
(私たちは、自分や環境を信じるから出来ないとつぶやきます。)
子孫が出来るなど、彼の年齢ならば到底不可能と思われるが、彼は主に信頼しました。
「主を信じた」スタート

15章は、神様に信頼を置いて素晴らしい信仰のスタートを切りました。16章は、がらりと変わってしまいます。
神様の約束がなかなか成就しないことに苛立ちを覚えた妻のサラがまず、自分の考え、神様とは別の方法を考えます。
「主は子供が産めないようにしている」と人間の常識に変えてしまいます。
そして、アブラハムは、サラのいう事を聞き入れ、人間の方法で子孫を残そうとします。

神様を抜きに物事を決めてしまう。
クリスチャン生活で、人間の言葉を聞き入れるか。神様の言葉を聞き入れるか。
この世の常識と人間的な判断で決めたなら、これ程恐ろしいことは、ありません。


アブラハムとサラの子、イサクは、ユダヤ人の先祖
アブラハムとそばめの子、イシュマエルは、アラブ人の先祖です。
この2つの民族は 、今も対立しています。


このように1人の人間が不信仰になるということは、子子孫孫に関わる重大な事です。
逆に、1人の人間が信仰に立つということは、子子孫孫へ大きく影響します。
アブラハムは、86才で不信仰な決断をした為に、神様との交わりが86才から99才の間、13年間も途絶えました。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」創世記17の1

失敗したアブラハムに神様は、13年後にもう一度顕現下さり、神様の再度の契約更新をされました。

そのひとりが言った、 「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。
その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」    (創世記18章10節~12節)

サラは、信仰がわからないで、心の中で笑った。
神様のお言葉に対する姿勢、畏敬の念が全くない。
それに対し、

「主に不可能なことがあろうか。」(創世記 18章14節)
人間が神様のなさる事が理解できるわけがないのです。

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。)
                                                                          (創世記21章1節)

神様はどんな事があっても、約束を成就されるお方です。 約束を守れないのは、人間です。
神は仰せられた。

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 (創世記22章2節)

アブラハムの愛するひとり子、100才になってやっと授かった「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるであろう」といわれた約束の子を殺して生け贄として捧げなさい。との神様のお言葉。
彼の人生の最高峰であり、最後のテスト。
神を愛するか、自分の子を愛するのかの選択を迫られた。
彼は、躊躇することなく、神様を選びます。
アブラハムは、信仰の人でしたが、アップダウンが激しかった。
しかし、最終的には、神様に従う事を学び、行いを通して彼の信仰を全うした。
私たちも節目節目に神様に扱われます。


そして、頭ではなく、行いを通してだけ信仰は、強くされます。
一つ、一つ、神様に従う選択をやっていくのです。
私たちは、完成したものを欲しがります。でも、あなた方がそこまで歩かなければ駄目なのです。

信仰は、ぐずぐずしてはいけません。
迷っている期間は、全面的に神様を信頼していないのです。
すぐに従うかどうか、神様は、信仰のテストをなさいます、「いつでも、神様を最優先するか」です。

アブラハムは、以前神様が下さった約束(イサクによって子孫が繁栄する)と違うと矛盾を感じたけれども、そこで神様に反論するのではなく、ただただ神様に従いました。
神様の与えて下さった御言葉についていった。
ここで、今までの信仰では、間に合わない、彼の大きな信仰のジャンプ、飛躍がありました。
一人一人の小さな信仰、心の営みの継続にいつしか大きな結果が現れるのです。
それには、神様がアブラハムを再び信仰の原点に立たせる必要がありました。
途中からは、ダメなのです。きちんと信仰の崩れてしまったところまで立ち返るのです。

「わたしは、全能の神」とおっしゃられる神様は、アブラハムの全てを引き受けて下り、神様に従って生きることに徹底した信仰により、彼を「友」と呼ばれました。
人間的にあの手、この手を使うのではなく、神様の前にのみ心を定めましょう。
神様の忍耐は、アブラハムだけでなく、私達にも注がれています。
自分の計画を優先するのではなく

 
「人に従うより、神に従うべきです」(使徒行伝5章29節) 空と木

これは、メッセージを聞いて信徒が書いたものです。メッセージそのままではありません。




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