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2015年9月27日 礼拝 メッセージ要約
「クリスチャンの実際生活 ⑪」 「行いのない信仰は、死んだもの」 クリスチャンとして教会に来て良かった。霊的に恵まれた。 しかし、日常生活との間にあまりに大きな落差がある。 このヤコブ2章では、信仰が行いに現れた人物が2人紹介されています。 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 (創世記12章1節) 人生の第1の節目が来ます。 75才のスタートです。 いくつになっても神様の声に従いスタートを切る、これが、信仰者の真の姿です。
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
二つ目の節目が、アブラム(アブラハム)約80才の時に来ます。
15章は、神様に信頼を置いて素晴らしい信仰のスタートを切りました。16章は、がらりと変わってしまいます。
神様を抜きに物事を決めてしまう。
失敗したアブラハムに神様は、13年後にもう一度顕現下さり、神様の再度の契約更新をされました。 そのひとりが言った、 「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。 その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」 (創世記18章10節~12節) サラは、信仰がわからないで、心の中で笑った。 神様のお言葉に対する姿勢、畏敬の念が全くない。 それに対し、 「主に不可能なことがあろうか。」(創世記 18章14節) 人間が神様のなさる事が理解できるわけがないのです。 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。) (創世記21章1節) 神様はどんな事があっても、約束を成就されるお方です。 約束を守れないのは、人間です。 神は仰せられた。 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 (創世記22章2節) アブラハムの愛するひとり子、100才になってやっと授かった「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるであろう」といわれた約束の子を殺して生け贄として捧げなさい。との神様のお言葉。 彼の人生の最高峰であり、最後のテスト。 神を愛するか、自分の子を愛するのかの選択を迫られた。 彼は、躊躇することなく、神様を選びます。 アブラハムは、信仰の人でしたが、アップダウンが激しかった。 しかし、最終的には、神様に従う事を学び、行いを通して彼の信仰を全うした。 私たちも節目節目に神様に扱われます。 そして、頭ではなく、行いを通してだけ信仰は、強くされます。 一つ、一つ、神様に従う選択をやっていくのです。 私たちは、完成したものを欲しがります。でも、あなた方がそこまで歩かなければ駄目なのです。 信仰は、ぐずぐずしてはいけません。 迷っている期間は、全面的に神様を信頼していないのです。 すぐに従うかどうか、神様は、信仰のテストをなさいます、「いつでも、神様を最優先するか」です。 アブラハムは、以前神様が下さった約束(イサクによって子孫が繁栄する)と違うと矛盾を感じたけれども、そこで神様に反論するのではなく、ただただ神様に従いました。 神様の与えて下さった御言葉についていった。 ここで、今までの信仰では、間に合わない、彼の大きな信仰のジャンプ、飛躍がありました。 一人一人の小さな信仰、心の営みの継続にいつしか大きな結果が現れるのです。 それには、神様がアブラハムを再び信仰の原点に立たせる必要がありました。 途中からは、ダメなのです。きちんと信仰の崩れてしまったところまで立ち返るのです。 「わたしは、全能の神」とおっしゃられる神様は、アブラハムの全てを引き受けて下り、神様に従って生きることに徹底した信仰により、彼を「友」と呼ばれました。 人間的にあの手、この手を使うのではなく、神様の前にのみ心を定めましょう。 神様の忍耐は、アブラハムだけでなく、私達にも注がれています。 自分の計画を優先するのではなく 「人に従うより、神に従うべきです」(使徒行伝5章29節) これは、メッセージを聞いて信徒が書いたものです。メッセージそのままではありません。 |
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