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<メッセージ 週報より NO.0047>

「あなたがたが、渡って行って所有しようとしている地は
山と谷の地であり、天の雨で潤っている。

そこはあなたの神、主が求められる地で、
年の初めから終わりまで、あなたの神、主が、
絶えずその上に目を留めておられる地である。」 申命記11:11-12 

新年を迎えました。
明るい将来を展望することが難しい時代ですが、
主にあって良きことを大いに期待しています。
この年のために、もっと前に向かって進むようにと主から示され

元旦礼拝には
「主が絶えずその上に目を留めておられる地」
申命記11:8-12
私たちひとりひとりの霊性が、
神に統一された人格、霊性が養われて行くようにと語られました。

今朝は、「霊に燃え主に仕えなさい」
神の賜物を燃え立たせるようにと。
神の下さったものは「臆病の霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。」から
御霊に満たされて主に仕えましょう。


<メッセージ 週報より NO.0046>

ことばは人となって
私たちの間に住まわれた。 ヨハネ1.14
その夜、天使は美しい歌声をもって
羊飼に降臨を告げ、 博士達は輝く星に
導かれて飼い葉おけの主を拝しました。

永遠で無限の神は、有限の人間にとっては
認識の範囲をこえています。
神はその恵みによって、
人間の五感に触れるもの、
私達の目撃にたえるものとして、
永遠のことばを肉体とし、
私達の内に宿らせ、
飼い葉おけに生まれさせられたのです。

飼い葉おけの御子の中に、
「恵みとまことに満ちた」
神の愛と、みことばの具体化を 
見出し得る私たちは幸いです。


<メッセージ 週報より NO.0045>

祝・ペンテコステ
聖霊降臨と教会誕生です。
精霊は、この日から今に至るまで
働いて居られます。
精霊に、心から明け渡し委ねる時に
私達の心に、大きな変化をもたらして下さいます。

恐れは平安に、臆病は大胆に、
自己中心が愛中心に変えられます。
日々の生活において、
継続的な臨在と、助けと慰めと知恵を与えてくださいます。

精霊に対しての態度は?
 ・精霊に協力的でしょうか。
   又は、非協力的でしょうか。
  ・精霊のイエス。ノー。の指示に関して従順でしょうか。
   反抗的ですか。
  ・精霊の語りかけに敏感ですか。
   又は、無関心でしょうか。


<メッセージ 週報より NO.0044>

復活の主の顕現の三つの事柄
1.マグダラのマリヤへの顕現
復活されたイエス・キリストに対する
マグダラのマリヤのひたすらな愛の行為と、
その悲しみを豊かに慰めてくださった事実。

2.弟子たちへの顕現
弟子たちの、恐れおののきが喜びに変わった事実。

3.トマスへの顕現
トマスの懐疑が信仰の告白になった事実と、
そしてような弟子たちの心の変化の事実。

このように私たちを愛して十字架にかかり、
よみがえられたイエス・キリストに
「私の主、私の神」と告白すること
そのような生涯の中から命のある生き方が可能となります。


<メッセージ 週報より NO.0043>

棕櫚の主日と呼ぶ、受難週初日に
主はエルサレムに入城されました。
民衆は上着を道に敷き、また棕櫚の枝を打ち振り、
ホサナの歓声を挙げて主を迎えました。

「ホサナ。祝福あれ。 主の御名によってこられる方に」

主は負うべき十字架に向かって 進んで行かれました。
「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」
十字架は「わたしの思い」との人間中心の歴史を
「みこころのままに」と
祈る神中心の歴史に転回させる事が キリストの使命でもありました。


<メッセージ 週報より NO.0042>

「ここに愛があるのです」と、
神の愛を聖書は強調しています。
更に、神の私たちへの愛の度合は
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ」
たという事です。
「なだめの供え物」とは「罪をあがなう生け贄」です。

イエスが私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死なれたのです。 「私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが、私たちのために死んで下さったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

愛されるにはあまりにも価値のない罪人をゆるし、きよめ、
御前に生きる者として下さったことを感謝しましょう。


<メッセージ 週報より NO.0041>

言いようもない不安を感じ、
恐れで心が支配されそうになり、
内側にあった喜びと力は失われ弱っていく。
そんな時、どうすれば、
生きる希望と喜びを取り戻せることができましょうか。

神はアブラハムに語りました。
「さあ、天を見上げなさい」   と。

自分の天幕に閉じこもり、自分の知恵や力ばかりに目を留めていた彼を
回復に導くために、神は、天幕から出て、天を見上げるようにと
仰ったのです。 天地万物を造られた偉大な神に目を留め、
希望と力に満ちた神の語りかけに耳を傾ける。 これこそが、不安と恐れから解放され、
生きる希望と喜びを取り戻せる秘訣であると聖書は語っています。


<メッセージ 週報より NO.0040>

「平安があなたがたにあるように」    ヨハネ20章19節

イエスが私達に持つ事を願われた平安
それは、イエスが持っていた、イエスが経験した平安です。
あらゆる種類の苦しみを通過しながら
イエスが持ち続け、失う事がなかった平安です。
それは、自分を取り囲む環境や自分の立場が
平穏であることによるのではなく
むしろ、その反対の状況に置かれても
自分自身の中に持つ平安なのです。

辛くないのではありません。
苦しくないのでもありません。
辛さ、苦しさも現実ならば、神と共に歩み、
与えられた使命と良心に忠実に生きる者が、
どのような困難の中にあっても平安であるというのも 確かな事実です。
主の持っておられた平安です。


<メッセージ 週報より NO.0039>

定めの時が来たので
神はご自分の御子を遣わし、
ガラテヤ4章4節

世界の歴史は、キリストの降誕の年を紀元元年としています。
主の年、西暦を用いるのは、
人間存在の中にキリストが来たりたもうた事実こそが
歴史の中心であるとの信仰告白から来ています。

キリスト降誕を中心に、 紀元前と後に歴史を分けることは、
キリストなしの無目的に過ぎ去った日々と、
キリスト来臨によって救いと光を与えられ、
希望をもつことができるようになった歴史とを区別することにほかなりません。

私達の人生も、キリストを知る以前と、
信仰告白をしてからの二つの部分に分けられます。


<メッセージ 週報より NO.0038>

「ここに愛があるのです」
教の判断の基準は、
その人がその信仰の故にどのような心の持ち主になっているか、
そして具体的にその生活が、
言っていることと一致しているかどうかです。

善行を重ね、光徳を積むことによって救われるのではありません。

どうすれば救われるのでしょうか。
 ・当然神のきよさの前で裁かれ、  滅ぼされる私達の身代わりとして 
  神にさばかれたキリストこそ、 
  私の救い主だと信じ受け入れる事です。

神がそれほどに価値も値打もない者を愛してくださった事を経験しますと、その人の内に神の愛の実践が伴います。

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた 互いに愛し合うべきです。」 (Ⅰヨハネの手紙 4章11節)


<メッセージ 週報より NO.0037>

「ここに愛があるのです」
神の愛を聖書は強調しています。
更に、神の私たちへの愛の度合いは
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ」たという事です。
「なだめの供え物」とは「罪を償う生け贄」です。

イエスが私たちの罪のために身代わりとなって、
十字架で死なれたのです。

 「私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが、私たちのために、死んで下さったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
愛されるにはあまりにも価値のない罪人を
赦し、 きよめ、御前に生きる者として下さったことを 感謝しましょう。


<メッセージ 週報より NO.0036>

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、日照りの年にも心配なく、
いつまでも実をみのらせる。 エレミヤ17:7-8

焼けるような荒野を背景に、
水辺で 生息する植物の幸いを語っています。
砂漠の中のパラダイスです。
私達の人生における神との出会いもそれと似ています。
どこで生きるのか、誰のそばで一緒に歩むのかです。
命の根源である神に感謝しましょう。


<メッセージ 週報より NO.0035>

神は私たち全てに関心をお持ちですが、
とりわけ私たちの口、ことばに関心を持っておられます。
私たちが自分のことばを制御することを、神は願っておられます。
生きていく限り失敗は避けられません。
一言が相手をも自分をも汚し、小さな火が大きな森を燃やすように、
家庭や人間関係、人生を破壊します。
だからこそ私たちは、ことばを治めなければなりません。
人生の成否は、ことばのコントロールにかかっています。

どのようにして可能になるのでしょうか。
礼拝や賛美を通して神が私たちに光を当てて教え導いてくださいます。


<メッセージ 週報より NO.0034>

「平安があなたがたにあるように」  ヨハネ20:19 
イエスが私たちに持つ事を願われた平安
それは、イエスが持っていた、 イエスが経験した平安です。
あらゆる種類の苦しみを通過しながら
イエスが持ち続け、 失う事がなかった平安です。
それは、自分を取り囲む環境や自分の立場が平安である事によるのではなく
むしろ、その反対の状況に置かれても自分自身の中に持つ平安なのです。

辛くないのではありません。
苦しくないのでもありません。
辛さ、苦しさも現実ならば、神と共に歩み、
与えられた使命と良心に忠実に生きる者が、
どのような困難の中にあっても平安である というもの確かな事実です。
主の持っておられた平安です。


<メッセージ 週報より NO.0033>

教会総会の朝です。  神の聖臨在と導きを祈りましょう。
私たちは、イエス・キリストの恵みにより信仰によって救われました。
クリスチャンとしての誠実な生き方、ことば、節制、試練に耐える力、等
そしてクリスチャンにしかできない重要な働きがあります。
それは 「罪人を迷いの道から引き戻す」 という働きです。  ヤコブ5:20

神の熱い思いは、
一人でも多くの人を滅びの道からキリストの救いに引き戻す事です。
この尊い働きに参画することこそ
神の御思いにかなう最も尊い働きです。

宣教と救霊に全力を尽くしましょう。


<メッセージ 週報より NO.0032>

福音はユダヤの国を出て、広く世界に述べ伝えられてきました。
しかし、世界のすべての人が
それを受け入れたのではありません。
聞く人の心の状態によって、様々な結果を生じます。

道ばたの土のように堅い心で、
みことばを聞いてもそれを自分の心に当てはめることをしない人。
岩のように堅くなった心で
一時はみことばを受けても艱難や迫害に耐える力がなくなる人。
茨がはえてくるように
心に不信仰が働き、思い煩いや、この世の楽しみに奪われてしまう人。
良き地に蒔かれた種のように
みことばを心に当てはめ、試練に耐え全ての誘惑を退けて信じ続け、生涯と
品性に良い実を結び、神を崇める人。
幸福をもたらすものは神のことばです。


<メッセージ 週報より NO.0031>

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ22:39)
私たちの隣人愛は、自分を愛すると同じやり方でしなさいと主は言われます。
その自分は、神によって愛される資格も値打もない者です。
しかし、神は、ただ、愛のゆえに、私たちに対する裁きと呪いと滅びを
キリストに負わせて、私たちを愛してくださったのです。
この神の愛の経験によって、愛せない者を愛する愛が芽生えてくるのです。
愛の源泉こそ、キリストの十字架のもとに あることを知りましょう。
「祈り」
祈りは、神と一対一になること、神と交わり、
神から安息を頂くと言う経験をします。
戸を閉じて神に近づくことが身につきますように。
神に信頼することが、日常生活の中に毎日体験する習慣となりますように。


<メッセージ 週報より NO.0030>

五旬節(ペンテコステ)礼拝
宣教の準備が完了し、神の時が満ちた時、神は聖霊を遣わされ、
その宣教のみ業を堂々と開始されます。
五旬節の出来事で大切なことは
「みなが聖霊に満たされ」たという事実です。
聖霊に満たされるとは全く神のものになりきったこと、
また神がその人を何の妨げもなく
支配していることを意味します。
聖霊のみわざのゆえに、
使徒達は、問題、課題、困難を乗り越えただけでなく、
日々、力に満たされ真の勝利者として前進することができました。


<メッセージ 週報より NO.0029>

私たちの国籍は天にあります。 ピリピ3:20
ローマの獄中、我が身に迫る死の足音を聞きながら、
パウロは、どのように復活の希望をピリピの教会宛てにしたためたでしょうか。

たちは、死で終わらない天国籍を
持つ天上人として召されているのです。
この国籍を得る為に私たちは何の努力もしませんでした。
キリストが十字架で命を捨て、死を打ち破り復活し、
再臨を約束して 昇天されたことによって、
私たちの天国籍は確かなものとされたのです。

死が切迫すればするほど、
体が衰えれば衰えるほど復活の宝は輝きを増します。
地上に執着せず天を仰ぎましょう。


<メッセージ 週報より NO.0028>

人間の予測を超えた恐ろしい闇の力
私たちを破滅に追いやろうとする存在が確かにあります。
サタンの目的は、私たちを叩きのめし、信仰を失わせ、粉々に砕きます。
今、ドン底を体験していますか。
でも大丈夫です。

・神の大きな御手があります。
サタンが働いても、それは神の御手の中、
一定限度の許しの中なのです。
・更に、日夜私たちの為にとりなし祈ってくださる
イエスの祈りがあります。
まるでバリアのようにイエスの祈りが私たちを取り囲んでいます。
神が新たな私たちとしてくださって
これからの人生を今まで以上に祝福してくださいます。


<メッセージ 週報より NO.0027>

「あなたがたは堅く信仰に立って」  コリントⅡ1:24
目指すべき信仰者の生き方
信仰者は主キリスト・イエスを受け入れたという経験を持っています。
その歩み方として
「教えられたとおり信仰を堅く」 することです。
信仰の成長とは、
何か新しいことを次々やる事ではなく、
最初の単純な信仰に立ち続け、信じ続けて信仰を確かなものとすることです。
その信仰は、
聖書の真理に基づく正統な信仰であり
この教えは、
単なる知識ではなく、私達に救いを与え、 私達を変えるものです。
何によっても揺るがない信仰の堅立を祈り、 成熟を目指しましょう。


<メッセージ 週報より NO.0026>

「神はあなたがたを子として 扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」 ヘブル12:7
私達は健康を失うことを恐れ、 痛みや苦しみにあることを恐れます。
そういうものは人生においてマイナスであり、無益であるかのように思います。
人生の年輪を刻んでゆこうと願うなら
このような苦難や苦痛がどこを源にして発しているのかということを
しっかり捉えておく必要があります。
それは、万物のまことの創造主であり、
今も生きて働いておられる全能者である神が、
このようなことが私達に起こることを許し、それによって、
私達を正しく整えようとしておられるところから来ているのです。


<メッセージ 週報より No.0025>

祈りは単に何かを求めることではなく
私達の「愛するお方」であります イエス・キリストとの交わりです。
「どんなときにも、 御霊によって祈りなさい。」
自分の座っている部屋だけでなく、
私の思いからも、この世を締め出し 神と二人だけになることです。
いつまでも私の思いと祈りを、神の右に座しておられるイエス・キリストに向けるのです。
クリスチャンの真の影響力は、 才能や与えられた機会によって
測られるものではありません。
力ある人を見つけ出した所には 何処でも、祈りの人がいます。

<メッセージ 週報より NO.0024>

キリストが歩まれたように歩む
主の公生涯の働きの始めにあたって サタンは激しく攻めかかりました。
その時、主はご自分のすぐれた判断や
強い意志や性格に依り頼むことはなさいませんでした。
一つ一つの試みに、みことばを引用することによって対処し、
勝利を得られたのです。
「・・・と書いてある」

みことばを引用することで、
どのように悪魔の攻撃を受け止めたかを私たちが知るようにと、
主は強く望んでおられるのではないでしょうか。


<メッセージ 週報より NO.0023>

まことの平和は何処に、どのように見いだされるのでしょうか。
「神との平和を持つことによってもたらされます。」 ローマ5:1
神に反逆していた私達がその罪を棄て
私達の身代わりとなって十字架にかかって下さった
キリスト・イエスを 信じて仰ぐ時、神との和解がなり、
神との平和が与えられるのです。
この神との平和は、神に主導権を渡す度合いに従って、 拡大し、堅立します。
更に、この神との平和は、 人との平和に進まなければ成りません。
その実践の場は、家庭において、 社会において、教会においてです。
今ほど「平和をつくりだす」 人を求めている時代は
無いことを痛感します。


<メッセージ 週報より NO.0022>

暗雲たちこめる混乱の時代に、 教会だけは、クリスチャンだけは、
憂き目にあわないというわけにはいきません。
どうしてこんなことが起こるのかと、
我が耳を疑い、神を疑うような、受け入れがたい現実があります。
また一方、そのような出来事の中にも、
人間の計算や説明を超えた神の御手がそこに働いている
ことをも知ることができます。
激動の時代の嵐は免れないにしても
その悲しみの中に神の優しく温かな御手があります。
どうして?と問わずにいられない出来事の中で
「ああ神が共におられる」 という慰めを覚えましょう。


<メッセージ 週報より NO.0021>

しかし、イエスご自身は、
よく荒野に退いて祈っておられた。 ルカ5:16
気が付かないうちに職場や家庭の問題に引きずられ、
流されてしまっていることがあります。
そこにくさびを打つように、 聖日礼拝を守り、祈り、
神のみもとに身を押し出すことは、
私たちの魂と人生にとってどれぼど重要なことでしょう。
地上の人生はままならないものです。
それだけは避けたいという方向に事が運んでしまうことがよくあります。
だから、それを発露として
「祈りなさい。そこから祈れ」 と神は語りかけておられます。


<メッセージ 週報より NO.0020>

その夜、天使は美しい歌声をもって羊飼いたちに降誕を告げ、
博士たちは、輝く星に導かれて飼葉桶の
主イエス・キリストを拝しました。
私たちの罪と汚れを全て身に負い、贖うために来られた救い主、
人間のあらゆる罪の処罰を受ける為に十字架にかかられたイエス・キリスト
この
「王の王」 「主の主」の誕生に、たった一つの部屋もなかったことは、
人間の罪の現実をよく表しています。
余地がなかったのはベツレヘムだけでしょうか。
私たちの生活も、魂の中も、先客で満員になっていませんか?
主は私の魂を求め、私の心の扉を叩き続けておられます。
心の扉は全開ですか。


<メッセージ 週報より NO.0019>

「見よ。イスラエルを守る方は
まどろむこともなく、眠ることもない。」 詩編121:4

祝福の神はまどろむこともなく守り、
それは、外面的な攻撃や危険から守って下さるだけでなく、
私たちのいのち、魂、心を強くし、
どんな時にもくじけずよろめかないようにして下さいます。
たとえ行き詰ったとしても、 天は常に高くあり、開かれています。    
そこに坐している神が、両手を広げ、
大きな祝福のエールを送っています。
私たちもこの地上の日々の生活において足を引っ張ったり、
歪み合ったりすることにエネルギーを費やすことを避け
天の神の祝福を受けていることを感謝して、
互いに祝福しあう群れでありましょう。


<メッセージ 週報より NO.0018>

神は、無限に貴い価を払われました。
人間は罪の裁きと死を背負っています。
「人間には、一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが定まっている」  へブル9:27

このような人間に、神はその独り子イエス・キリストを与えて下さいました。
罪の全くない神の子が、私に代わって私の罪の身代わりとして
私が死んで支払うべき罪の価を支払って下さいました。
罪を悔い改め、主を私の救い主と信じる者に、
永遠の命を与えて下さいます。
「御子を信じる者は 永遠のいのちを持つ」  ヨハネ3:36


<メッセージ 週報より NO.0017>

人は、どのようにして「救われる」のでしょうか。
十字架上のキリストの死によってです。
私たちは、みな罪人です。
「義人はいない。 ひとりもいない」

しかし、「キリストは・・・不敬虔な者のために死んでくださいました。」
神は私の罪に対する処罰の価を払ってくださいました。
ですから 「御子の死 によって神との和解」  
することが出来たのです。
救いの条件は、悔い改めと信仰です。
救い主を十字架につけた私の罪を
悲しみ、悔い改め、罪から離れること、
そして、イエス、キリストを救い主と信じ、信頼していくことです。


<メッセージ 週報より NO.0016>

一日のうちで、いやなことやマイナスに思えることが
起こってくることもあります。
でもそのようなときに、
いつまでも落ち込んでいると、サタンの罠に陥ります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」 ローマ8:28

みことばに基づいた信仰です
是非、苦しい時、試練に合った時には、
みことばを思い起こすことを心の習慣としましょう。
神のみことばは、生きていて力があるのです。 約束は必ず実現します。


<メッセージ 週報より NO.0015>

目の前の出来事を中心にして考えてばかりいますと
信仰が屈折していきます。
私たちには、十字架でキリストが いのちを捨ててくださったほどの
神の絶対的な愛が注がれているのです。

「たとい山々が移り、丘が動いても
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」 

と神は誓われました。
問題に直面してうずくまるときこそ
神を 「愛の神」 「恵みの神」 と告白しましょう。
目の前のことに心縛られ、
小さな世界に入り込んでしまう私たちを
神の視野に引き出して頂きましょう。
神は偉大な御方です。


<メッセージ 週報より NO.0014>

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。
わたしがあなた方を休ませてあげよう。」 マタイ11:28

イエス・キリストは私を愛し、私の人生の道のりを共に歩むために
救い主として世に来て下さいました。
私達の悲しみや痛みを共有し、 私達に寄り添い、
最後は私達の罪をその身に負い、
十字架にはりつけとなり、
身代りに一切の裁きを受けました。
それ故に、人間の罪は赦され、憎悪にかきたてられる心の暗闇に
終止符を打ち、前向きに生きる新しい道が開かれました。
このイエスの招きに飛び込んで、
人生の重荷をおろしてみませんか。


<メッセージ 週報より NO.0013>

目に見えない究極の価値を、決して
見失う事のないようにと教えています。
「いつもまでも残るものは 信仰と希望と愛です。」
目に見えるものに囲まれすぎると、
いつしかそれらに頼り、
心と目が奪われがちになります。
「苦しみに会ったことは、
私にとって しあわせでした。
私はそれであなたのおきてを 学びました。」

苦しみの中で神に出会い、
しばしば多くの慰めや悲しみを 体験することができるからです。
聖書の教えに心の目が開かれ、 生活に新たな風が吹き始めます。


<メッセージ 週報より NO.0012>

目の前に百通りの道があったとしても
誰しも一本の道しか歩めません。
大切な人生のその道を 何処に
見定めるかは重要です。
聖書はきよい道が、その選択の際の
一つの基準だと諭しています。
その道の先にこそ、
大きな祝福が用意されているからです。
ややもすると、
損得勘定で目先の利益に流されてしまいそうになります。
けれどもその誘惑を断ち切って、
長い目で見た人生の選択をするようにと聖書は語ります。
大きな祝福の本流に繋がる、小さな一歩が肝心です。
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。 ヨハネ14章6節」
 


<メッセージ 週報より NO.0011>

「わたしは父にお願いします。
そうすれば父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」

その意味するところは、
私たちの必要に応じて励ましや訓戒、慰めを与え、導いてくださるお方です。
誰もが将来に不安を覚えたり、孤独を感じたりする現在、
神は私たちが一人ではないと語っています。
地に落ちれば粉々に砕け散ってしまう
もろくて弱い土の器の私たちを
主はご自身の血潮によって買い取り、
更に助け主なる聖霊を与え、
人生の最後まで寄り添い、伴走して下さいます。
 ハレルヤ!。


<メッセージ 週報より NO.0010>

試練にあったときの聖書の勧めは
へりくだりなさい。ゆだねなさい、と言います。
「神は高ぶる者に敵対し、 へりくだる者に恵みを与えられる」
からです。
へりくだるというのは、神の力強い御手の下にへりくだり、 神に服することです。
自分の計画ではありません。
冬の間は何も変わっていないように見えても、
時が来れば桜は一気に咲き  その勢いを止めることはできません。
何事につけ、諦めずあせらず、
主権は神にあること、時は神の手にあることを覚え、
へりくだりましょう。
時満ちて神の力強いみわざが現れるのですから。



<メッセージ 週報より NO.009>

「私の時は、御手の中にあります。」   詩篇31章15節

神の時というのは、聖書でも非常に
重要な思想のひとつです。
私たちの中心は、
しばしば自分の時、自分のプログラム
自分の人生観と、自分のライフスタイルになりがちですが、
しかし、聖書の中心は、
神のみこころ、神の時なのです。
私たちは、キリストのしもべです。
しもべは、いつでもスタンバイOKの指示待ちの姿勢です。
何でもします。
キリストのもとにひざまずいて、十分恵みを受け、
神の時の中で、自由に用いていただきましょう。


<メッセージ 週報より NO.008>

人生には、様々な試練があります。
しかし、神は、その様々な試練を
一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。
もう他の何ものにも助けを求める事が
出来ない苦しみの時、
ひたすら上に向かって叫ぶと、神の救いが見えて来ます。
食べる物や着る物が困らない時は、見えなかった人の優しさや親切が、
貧乏のどん底に落ち込んで見上げる時見えて来ます。
普通では見えないものが、試練を通して見えて来るならば、
それは試練の時の祝福ではないでしょうか。
神を求める者、祈る者にとっては、
そのいろいろなことがすべて、祝福と変えられる可能性があります。


<メッセージ 週報より NO.007>

「愛する者よ。
あなたが、たましいに幸いを得ているように
すべての点でも幸いを得また健康であるように祈ります。」  ヨハネⅢ 2節

健康でありますことは願わしいことですが、
何よりも先ず、  神の前と人との間に正しい関係を保ち続けることです。
年老いた信仰者は神ご自身に、
教えられてきた神の大能の わざと義を
後に来る全ての者に告げ知らせると詩篇71編は 語っています。
自分の弱さを自覚しつつその弱さと反比例して
神の義と救い の数知れぬ偉大さを知り、
神の力をいよいよ知って、それを 述べ伝えましょう。


<メッセージ 週報より NO.006>

イエスは、弟子達に「今あるものは何か」と問われました。
そこにあったのは、少年のお弁当で、パンが五つと魚二匹でした。
イエスはそれを「嘆きの材料にせずに」天を見上げて祝福したのです。
目の前に立ちはだかる現実の前で、
これしか手元にないと嘆くのではなくどんな時も、天を見上げ、
感謝するところから始めましょう。
そんな前向き、 天を仰ぐ心の姿勢は、
必ずや新たな祝福の呼び水
となります。
ないものを数えてがっかりするのではなく、
今あるものをもって一歩信仰の踏み出しをしましょう。


<メッセージ 週報より No.005>

今、行く先不透明な世相にあって、
希望が持てず足がすくんでしまうということがあります。
しかし、考えてみますと、もともと私たちの人生は先が読めません。
いつまで健康でいられるのだろうか。
経済の安定はどうだろうか。
人生の見通しが立たず保証のないまま待ったなしに進んで行きます。
あれこれ心配しないで、
それよりもまず神を信じ、
人生の途上での様々な出来事に主が伴い
その時々のプロセスを共にして下さるという事実に目を留めましょう。
「恐れるな、わたしがあなたとともにいる」  イザヤ43:5


<メッセージ 週報より No.004>

今、多くの人の心を覆い、人生を空しくさせてしまっているものがあります。
第1は、 無価値感です。
自分なんかいなくても 変わりはない、という思いです。
第2は、 孤独感です。
孤独になる時の決まり文句、
それは「誰も私のことを分かってくれない」ということばです。
第3は、 怒りです。
ある人は、自分自身に怒っています。 
まわりの環境に怒っています。
ぜひ知って下さい。 人生には価値があり、あなたは決して孤独ではないという素晴らしいメッセージが
聖書にはあるということです。


「わたしは、あながたがを捨てて孤児にはしません」


<メッセージ 週報より No.003>

アサはその神、主に叫び求めて言った。

「主よ。力の強い者を助けるのも 力のない者を助けるのも
あなたにあっては変わりはありません。
私たちの神、主よ。私たちを助けて下さい。」

主を求めるとは、最後まで求め続けていくこと 自分が思うように、願うようにではなく、
主が私たちに求めておられるあり方において「主を求める」こと、そこに命があります。
神が求められるのは、「ご自分と心を一つにする者」です。
そこに「全き心」ホーリネスがあります。


<メッセージ 週報より NO.002>

「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」 詩編30.5

苦しみの中で何が大事でしょうか。
希望を持つことです。
それは自分で自分の心を強める事です。
問題は苦しみで信仰のシの字も失ってしまう自分の心にあります。
環境や状況が問題なのではありません。
どん底の中でも信仰を働かせ、自分の心は自分で守ることが出来ます。

「力の限り、見張って、あなたの心を見張れ」 箴言4.23

夕暮れの後には朝明けが用意され、涙の谷で終わらないことを告白し、 朝明けには、喜びの叫びが待っていることを信じましょう。


<メッセージ 週報より NO.001>

「主ご自身がこう言われるのです。
わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。 へブル13.5」

誰しも、自然界の厳しさを目の当たりにする時、自分の人生を考え、
孤独を感じるかもしれません。

人間は、時には自分だけが 孤独なのだと勘違いしたり、自分だけが不幸なのだと 
自己憐憫に陥ったりしがちです。

けれども普段は、老若男女を問わず、どんなに家族や友人に囲まれていても 
最終的には一人であり、孤独なのではないでしょうか。

感謝なことに私達には「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」と言われる主が
共にいて下さいます。



<祈祷会出席のお勧め>

今日の教会が最も必要としていますのは、聖霊によって、神との交わりを体験的に実現する
ことです。
生活と祈りの相互作用の中に力の秘密があるのではないでしょうか。

神の御前に、「我が贖(あがな)い主。主よ」と言って近づくことの出来る恵みは、何と祝福に
満ちたことでしょうか。

心の底から湧き上がる信頼と、願いを共にささげましょう。


サンシュ250


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