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メッセージ (2014年3月17日)再任ご挨拶と礼拝メッセージ

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」 ルカ5:1-11 <要約>

主は、ペテロに命じられた。
4節「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」
「深みに漕ぎ出だす」とは
慣れ親しんだ所から全然違う所へ出て行く時、或いは自分がこれまで体験したことのないチャレンジに立ち向かう時を意味する。
深みには浅瀬にはない危険 ⇔ 深みには浅瀬にはない獲物

この「深みに漕ぎ出す」人生、新しいチャレンジが展開していく人生とは
まず、イエスの「深みに漕ぎ出せ」というチャレンジの言葉から

1.チャレンジに従ったペテロ

5節「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ獲れませんでした。でもお言葉通り網をおろしてみましょう。」
ペテロは、イエスが言われたことばに信頼をして、御言葉通りにするという行動に出る。

結論1
自分が新しいステージに、新しいチャレンジに向かう時、家族の者が病む時、自分の就職を求める時、御言葉を真剣に捉えて、御言葉に人生をかけているか。
イエスの御言葉は単なる思い付きでも、何かの流れで発せられた言葉ではなく、私の人生、私を引き出すために、私を深みへと導くためのチャレンジであった。ペテロはそれを受けた。

2.イエスの言葉と出会ったペテロは、イエスを礼拝する。
5:6-9
5節の段階では、ペテロはイエスの事を「先生」と言っている。しかし、御言葉の力に出会い、ここ8節では、「主よ」と置き換えている。
つまり、ペテロは人間以上の天来の存在をイエス・キリストに感じたという事

次の段階で、5:1-8節 イエスのみことばに自分の信仰を掛けて実行したところ、驚きの結果が出て来た時――――ペテロは不思議にも自分の罪深さを感じた。

結論2
人は、みな神に触れた時に、何とも言えない恐れを抱く、自分自身の罪深さを痛感する。
逆に言うと、自分自身の罪深さを痛感している人は、すでに神に出会っている。
しかし、大抵は言い訳をしたり、開き直ったり、無視したりして、自分の罪を認めようとはしない。
私たちの前に、弁解を一切封じてしまうイエス・キリストが立たれたら、――――

ペテロは、その時ありのままの自分、神の前に汚れている自分を認めて、この方の前にひれ伏した。

3.するとイエスはペテロの礼拝を受け入れて下さいました。5:10

自分の罪深さを感じて、そしてひれ伏すことに対して、主は「怖がらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとる漁師にする。」
これから先、わたしは、あなたを捕え、あなたを成長させ、あなたを導き、あなたを神の栄光のために用いるという意味。

仰天するほどの奇跡を起こし、自分たちが罪深さに恐れを感じる程のイエスの言葉は、今度は暖かく、ペテロとわたしたちを迎える。 「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦された。」マタイ9:2

結論3
イエスとの出会いのレベルは様々。まだ真の意味で出会っていない場合もある。
しかし、どこかでこの方の聖なる臨在に触れた時に、私たちはとてつもない大きな罪深さを感じる。
十字架に向かって私たちはますます罪深さを感じていく。
でも最後に私たちは、いつでもそんな私を迎えて下さるイエス・キリストの温かい恵みを体験する。

新年、この御言葉に信頼をおき、深みへと導くチャレンジを受け止めましょう。

(これは、メッセージを聞いて信徒が要約したものです。)

梅


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